暮らしを選ぶ

 私は、暮らしかたは生きかたと同じである、と思っている。どう暮らすか、それは、どう生きるかということだと。

猫も生きかたは選び取ている

 何を食べて、何処に住んで、どんな仕事をして、どんなものを着て、どんな人たちと付き合うか。これらすべてが暮らしで、その人なりの選び取った生きかたでもある、と考えている。

 常に、暮らしや生きかたは、選び取っているはず。とはいっても、大人に成長したからと、いきなり「私は、こう選んで暮らしていくのだ、生きるのだ」ということにはならないと思う。

それは、幼少期の暮らし、生きかたという下敷き、これが大きく関係しているからだと思っている。幼少期は暮らしの土台作りとしての大切な時期であり、その時期をどう暮らしたか、これが、その人の、その後の暮らしを左右するといっても過言ではないと、私は思っている。

言い換えると、親の生きかた=暮らしかたが、幼少期の子にかなりの影響を及ぼす、ということだ。

そうなのだ、幼少期の子に与える親の影響が、子が大人になってからの暮らしや生きることに大いに関係しているのだ。つまり、幼少期の子供は、その感受性、洞察力、厳しい目で、確実に親の暮らしや生きかたを厳しいまでに捉え、それを子はしっかりと、つぶさに受け取っている、と私は思う。

この幼少期での体験、親から伝承されたことを受け取り、暮らし=生きかたの手本や学びにして、子は親に反発したり、賛成したり、妥協したりを繰り返し、親からの巣立ちまでの時期を、模索し、迷い、混乱して成長し続け、子は自分の暮らし=生きかたを手に入れていくのだと思う。

幼少期に受けた親の暮らしや生きざまが、子の大人となる過程での肥やしであるというわけだ。肥やしは、栄養分たっぷりで、量も多いほうが、人としての暮らし=生きかたを選び取りやすいということだ。

私自身も、多分に親の影響の肥やしを蓄え、巣立後の暮らしの様々な場面で、自分なりに、自分に合う、好きな、間違いないと思える暮らしや生きかたを、選び取り、ここまで心地よく、快適に、気ままに、ひとりで過ごしている。

残念ながら、私には伝え残すべき人はいない。人には、その人なりの、選び取った、生きかた=暮らしかたが、それぞれにある。それは、ひとりとして、同じではない。日本に生きるからと、皆同じという訳ではない。その人なりに、親から受けた肥やしを糧に、選び取っているかたであり、暮らしかただ、と思う。

そう、自分で選び取る暮らしかたをしなければ、何事にも、流され、乗せられ、自主性の無い、生きざま=暮らしかたとなってしまうこともある。その結果、もしかしたら、自分という主体を見失い、悩み、苦悩することにもなりかねない。

主体である自分が、生きる=暮らすための、学び、働く、住む、食べる、遊ぶ、着るなどの行動全てに関して、自らに選び取っていくことが、大切なのだ。

自分で選び、決めた生きかた=暮らしは、もし、失敗したとしても、後悔は無い。

自分では決めずに、親の言いなり、誰かに言われ、勧められ、真似し、同調し、他人事のように考えもなく、生き、暮らすことは、いつか失敗に気づいたとき、後悔するのではないだろうか。

生きかた=暮らしかた、これは、自主性を持ち、責任を伴う覚悟で、すべては「自分で選び取っていくしかない」ということだ.