暮らしを選ぶ 食

食は生きる要

暮らしの内容は、衣、食、住と、昔からこの3つに限られて、語られている。しかし、暮らしには、生きるために重要な働、そして、働を充実させるための、学、遊、交際なども含まれる。

昔は、どう言うわけで衣、食、住だけの内容と決めつけていたのだろうか。多分、土地(農地)があれば、働の場は農地と決まっていて、朝から晩まで、自分の農地で働いていた。食も、その収穫で自活暮らしが成り立っていた。衣なども自然環境から賄い、住宅もその土地で暮らすのだから、そこですべてが完結していた。農地を含む自然が暮らしのすべてであったからだ。だから、暮らし=衣食住だけでよかったのだと思う。

しかし、現代社会の暮らしは、働は農地だけではない。農地が職場だった当時からは、ものすごいスピードで、社会の形は大きく変化し、現在では、多岐に渡る働の場所が生み出され、それらは暮らしを取り巻いて、連動しているので、暮らし内容は衣食住だけとするわけには、いかなくなったのだと、私は考える。

社会の変革により、誰もが、働を得るために、進学を目指したり、成績を向上させたり、昇給を考えたりしている。それで、食、働、住、衣、学、遊、交と、暮らし内容も多岐に渡り、内容一つ一つが社会と様々な接点を持つよう複雑になっている、これが現代暮らしの内容である。

 この、多岐なる暮らし内容の中で、最も重要な内容は、何か?

それは「食」

身体という機能環境を維持、継続させるためには、「食」を粗末にする、蔑ろにするというわけにはいかない。

 それに、食が身体面に大きく左右することは、誰もが承知ではあるが、精神面とも深く結びつき、例えば、カルシウム不足の影響は、特に知られている。食は生きる要であるというわけだ。

 

話は飛ぶ。

ドイツ(10年ほど前)にホームスティした時のこと。ホームスティ先は、ハンブルグ郊外・高級住宅街に暮らすハンナさん。60歳位で私と変わらない年齢。ひとり暮らし、これも、ご同様。ただ一点、大きな違いは、彼女が暮らし家、これは、立派で大きなお屋敷。門を入り、玄関まで歩いて数分かかる。1階は、玄関、リビング、ダイニング、キッチン、浴室、彼女の居室がある。浴室といっても、10畳はあると思われる、広々としたスペースに浴槽、シャワー、トイレが別々に設置されている。これだけでも、広い!と思えるのに、地下にも居室が何室もある。

地下へと階段を下りると、廊下が長く続くが、モノがうずたかく積み上げられ、歩くのがやっと、といった感じだ。幾つもの居室を通り過ぎ、一番奥の部屋が、私に充てられた居室だった。スペースは8畳ほど、クローゼット、ベッドがあった。半地下状態なので、頭部分に小窓があった。そこから、家の広々とした庭が垣間見られた。庭が見えるのは、有り難かったが、地下室が居室となったホームスティは、初めてのことだ。しかも、広大な屋敷での地下室は、ちょっと、牢獄状態を感じてしまう。せっかくヨーロッパで一番いい季節と言われる6月、しかもハンブルグ。なのに、端から気持ちが滅入ってしまった。それに加えて、部屋を出ると、目の前が浴室、トイレなのだが、鍵がかかり、いちいち、トイレに行くにも鍵を遣う。廊下のモノがいかに、重要なモノかもしれないが、トイレにまで鍵を掛ける人、私は見たことも、聞いたこともなかった。やれ面倒だ!これから先が思いやられた。

この屋敷の話は、まだ続く。実は、同じ広さの2階もあって、そこは、貸しているとのこと。今は、女性が住んでいて、現在旅行中であるということだった。

到着翌日、ハンナさんの郵便物を受け取りに、郵便局に二人で出かけた。ここで手紙を受け取ったハンナさん、急に態度が豹変し、涙ぐんだ。何事か!

2階に暮らす旅行中の住人からの手紙。内容は突然、賃貸解約、もう戻ってこない、との手紙。彼女は狼狽し、何を言っても聞き入れない。すぐに、元夫(現在は、27歳のガールフレンドと暮らす)の所へ、相談に行くと。(内心、私は、もう最後通牒のような手紙なのだから、諦めればいいのに・・と、私だったら、そう決断するな)と、思いながら、滞在2日目に難題勃発。やれやれ、飛んだことになった。

その後、市内観光に出かけたが、昼食になっても、ご飯を食べる気配がない。思い余って、私はサンドイッチを買い、食べながら遊覧船での観光。彼女は、食事が喉を通らない様子。下船したら夕方。今度は、夕食だが、それも「無し」か?

私のホームスティでの楽しみと言えば、食事、それと伴のアルコール。飲める人は、昼から食事と共に飲んでいる。出来れば、飲む人のホームスティを望みたいところだが。大雑把、ざっくばらん、何事も気にしない、という私とは真逆の、神経質、細かい、すぐ気にしてグズグズするタイプのようだ。

今朝の手紙をずっと引きずっている。何をしても、上の空、もう決定していることなのに。何とかならないかと、ずっと思っている様子、手に取るように分かる。が、でもダメ。

理由は不明だ。ホームスティ2日目の私が想像するのも僭越だが、2階住人が居なくなったのも、元夫が若い人と暮らすようになったのも、「暮らしに最も大切な食」を彼女は蔑ろにしていたからではないか?と想像できた。

一日の食事内容例をあげてみれば一目だ。

朝 パン、ミューズリー、コーヒー

昼 サーモンサンド(市販)

夜 スモーク魚(市販) ポテサラ(市販)ナゲット(マクドナルド) トマト、パン、コーヒー

朝 パン コーヒー

昼 スープ(缶詰)魚の酢漬け(パック)パン いちご

夜 ナゲット残り 魚残り トマト 

毎日、このようなレシピでは、私だって嫌になる、第一暮らしへの思いが感じられない。時には、外食、パック惣菜、簡単レシピでもいいが、3食がすべてこれでは、楽しみようがない。気分まで滅入り、精神的元気も出ない。滞在2日で、食事にあれこれと注文を付ける私も、自分でもどうかとも思うが、それにしても、いくら家族同様の扱いが、ホームスティでは当たり前とはいえ、あまりと言えばあまりにも、食が粗末ではないか!

これはデンマーク・ホームスティでの食事 とっても美味しかった!美しい盛り付けにも感激!

食の楽しみ、食の満足は、気持ちを高揚させ、知らない人の食生活への関心が大きく膨らんでいく。ドイツ人はどんな食事を楽しんで、食事の時にどんな面白い会話をして、どんな明日の元気にしているのだろうか?と疑問をも沸かせるのが、私にはホームスティの一つの楽しみなのだが。彼女の場合、それが全く感じられない。むしろ、私の気持ちは、ガックリと肩が落ちるほど、失墜してしまった。

と、当時のハンブルグ・ホームスティを思い出し、やっぱり食は生きる要であり、身体的にも、精神的にも、ほどほどに充足させなければ、暮らしかた=生きかたは、上手く行かないし、人生も楽しくない、面白くもないということだ。